キリスト教と堺



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堺とキリスト教 1549年、これが、フランシスコ・ザビエルによって、日本にキリスト教が伝え られた年である。そして、秀吉のバテレン追放令が、1587年。これは、キリスト 教の布教を禁ずるもので、キリスト教を布教する目的でなければ、商船はもちろん その他のキリスト教国のからの来航者も禁止したものではなかった。しかし、 ついに、1596年、禁教令が出される。

ザビエルは、1550年の9月後半、平戸を出て、ミヤコへ向かった。12月17日まで、 山口での滞在をも数えて3カ月におよんだが、ある港で、堺の有力商人に出会い、 この商人が紹介した人物が、後に堺の自邸にキリスト教会をつくった日比谷了慶 (了珪)であった。この教会があった場所、それが、現在のザビエル公園(戎公園) である。この人物は、茶人としても有名で、津田宗及とも関係の深い人物。1550年 12月にザビエルを自邸に招き入れ、ミヤコに行き内裏の後奈良天皇に謁見するとい う彼に、ミヤコに居る小西隆佐(後の堺代官で、小西如清、小西行長の父)を紹介 している。ザビエルは、謁見叶わず、また、大学と思っていた比叡山への道もなく、 翌年1月、平戸への帰路に着いた。しかし、ザビエルが堺に蒔いた種は、着実に育っ ていったようだ。日比谷了慶は、1561年、宣教師ヴィレラを堺に招き、64年に、アルメイダとフロイスがやってくると、自らも洗礼を受け、屋敷内の瓦葺三階建の建物を聖堂にした。
ここに、多くの宣教師たちが訪れている。あの「日本史」を書き残したルイス・フ ロイス神父も滞在した。フロイスは、1566年のクリスマスを、ここ堺の教会で祝 った。世はまだ戦国時代で、この時は実際に近くで戦をしていたのだが、その敵味 方に分かれて戦っているキリシタン武士たちをフロイスは教会に招き、キリストの 絵を掛けて共にクリスマスを祝うようにしたのだとか。今でいうクリスマス休戦で ある。集まったのは両陣営のキリシタンたちおよそ70人。各自が食事を持ち寄って 共に食べ、キリストの下での友愛を分かち合ったという。



イラスト1 また、堺は、あの千利休を輩出した、茶人の町でもある。興味深いことに、その 利休の高弟たち、「利休七哲」と言われる弟子たちが、キリシタンか、キリシタン の良き理解者であったことは、銘記しておくべきであろう。もっとも有名なのは、 高山右近。昨年(2015年)列福がきまり、列福式が、今年、日本で開催されるよ うだ。右近の感化を受けて入信した、一番弟子で、後の千家の再興に尽力した会 津若松藩の蒲生氏郷、入信に際して数多くいた妻妾を退けたと言われる、牧村貞利。 そして、入信していないが、あの細川ガラシャの夫である、細川忠興。ガラシャの 遺骨が、最初に埋葬されたのも、ここ堺のキリシタン墓地である。
利休自身も、妻や娘がキリシタンであったことから、キリシタンではなかったか、 といわれるほど、茶の湯とキリスト教は、不思議なつながりがあったようだ。

 

堺には、ザビエル公園以外にも、キリスト教とのつながりの痕跡を残している場所 がある。この公園の近くのある、開口(あぐち)神社もその一つ。この神社の手水 鉢にはクルス紋(十字)が刻まれているが、益田酒造、益阪酒造の氏神さまは、この 神社だったそうだ。そして、もう一つ、阿免寺 (註1)というお寺。これも、酒蔵と 深いお付き合いがあったお寺で、ここにある観音様の頭には、十字架がのっている。

堺は、当時の権力の中枢に近いところに位置し、それは、キリスト教の布教にとっ て、とても重要だったに違いあるまい。しかし、時の権力者、秀吉が、1587年に バテレン追放令を出したことによって、堺とキリスト教の関係も、変わっていかざる を得ないかっただろう。そして、昨今、キリシタン大名と貿易(火薬などの入手) と関連して、日本の女性をヨーロッパに売っていたということの真偽が、問題にな りつつある。高山右近は、果たして、このことに関与していたのか、関与せずとも 知っていたのだろうか?私たちは、この時代の堺の歴史から、多くを学ぶことが できるのではなかろうか?


註1 唱名山 阿免寺 http://jodo.jp/32-347/  より転載

 

文禄元(1592)年に発令された禁教令(秀吉が禁教令をだしたのは、1596年である ので、齟齬があるが、ウェブサイトの文章をそのまま記載する)から3年後に開創 された。当寺開山上人の光阿浄林上人は、キリシタンをかくまい、当寺の宗派であ る浄土宗の「他力本願」の教えにより万人平等救済をし、「宗教は違っても、あつ く信仰に生きる同朋」の思いで温かく迎えた。当時の本堂は床が高く、床下にマリ ア像をまつり、密かに参拝出来るようにしたといわれていた。
   昭和20(1945)年7月の堺大空襲で当時の総檜づくりの本堂、庫裏はすべて全焼し、 戦災時、親戚の寺に預けられていた小さな阿弥陀如来を本尊として昭和35年頃 「隠れキリシタン」の思いに答えようと、隆阿昌元上人が光背部分に十字架を取り付 けられたものである。現在の本堂は、昭和51年に再建された。


 

この文章を書くにあたって、
下記の二つのウェブサイトを参考にさせていただいた。

http://tenjounoao.waterblue.ws/travel/osaka1.html   天上の青

http://www.pauline.or.jp/  Pauline ラウダーテ 女子パウロ会公式サイト